ロザリオ信心会

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ロザリオ信心会の起源と発展について

 アベ・マリアの祈り(天使祝詞)は、13世紀の初め頃からドミニコ会員によってもっとも愛唱されてきた祈りです。 1266年より、司祭でないドミニコ会修道士は「教会の祈り」の代わりに主の祈りとともにアベ・マリアの祈りを繰り返し繰り返し唱えて来ました。個人で唱える場合、アベ・マリアの祈りを唱えるだけでなく「ロザリオ」と呼ばれる紐の結び目で数える習慣があり(1261年)、後になって紐の結び目の代わりにさまざまな材料で作られた数珠球になり、遂には珊瑚球が使われるほどでした(1356年)。その頃から「ロザリオ」という名称は、至聖なる乙女マリアに捧げる「マリアの小聖務日課」と呼ばれるアベ・マリアの祈りを数える数珠球全体を指すようになりました。 1255年より、マリアに対するこの信心業を広めるために熱心なキリスト信者は「至聖なる乙女マリアの信心会」と称する団体をイタリアのマントアに設立しました。1256年にはフローレンスに、1258年にはイタリアのペルシアとパピアに、1259年にはプラセンシアに、1288年にはウルベベタナの団体は「至聖なる乙女マリアと聖ドミニコ信心会の修道会」という名称を採用しました。
15世紀の半ばを過ぎると、聖なる乙女に対するさまざまな信心業の中で「至聖なる乙女マリアの詩編集」と称する信心業が抜きん出ていましたが、それは150回アベ・マリアの祈りを唱えるもので、フランス管区のドミニコ会員アラノ・デ・ルペあるいはロチェ神父(1248~1475)によって創案されたもので、イエス・キリストの誕生、受難そして復活の奥義を黙想するものです。この信心業を決定するために、アラノ神父は信心会を創立しました1464,1470,1468,1470)。
しかしアラノ神父はロザリオという名称を拒否し、また15の奥義に配分することはしませんでした。50回を喜びの奥義のために、50回を苦しみの奥義に、そして50回を栄光の奥義に分配されたロザリオの創始者そして最終的に「ロザリオ」の名称をつけたのは彼の友人であったカルツシアノ修道会のドミンゴ神父でした。
1475年9月8日、ドイツ・ケルン市のドミニコ会修道院において最初のロザリオ信心会が神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ3世の臨席のもとに設立され、後に教皇アレキサンデル6世の使節によって承認されました。
1479年5月12日付けの教皇シクスト4世の代勅書によって「乙女マリアの詩編」あるいは「ロザリオ信心会」は全カトリック教会に承認されました。1481年ロザリオ信心会の会員は聖ドミニコ修道会の中で世界中のドミニコ会員の霊的功徳に参与することが決議されましたが、これは1484年のドミニコ会総会において承認されました。
1488年からヨーロッパ、特にイタリア、スペイン、ポルトガルに広がりましたが、特に驚くほどの発展を遂げたのは1571年以来のことで、あの有名なレパントの戦い、すなわちキリスト教諸国の海軍がトルコの優勢な海軍に勝ったのは聖ピオ5世教皇が世界のカトリック信者に祈れと命じたロザリオのお陰であると信じられたからです。
「ロザリオの信心」はイベリア半島からアメリカ大陸へ伝播し、1548年6月16日、メキシコ市から始まってあらゆる場所で常に乙女マリアに対する信心がロザリオを通して広がっていきました。
スペイン領アメリカ大陸において、フィリピン諸島をはじめそのほかのスペイン領地において、ドミニコ会員が説教の手段の一つとして効果的に用いたのがロザリオの信心でした。現状のさまざまな研究によって、中央アメリカや南アメリカでは、ロザリオの信心に関する信心会、教会、祭壇、祝日、村祭り、絵画など、多くの資料や信心用具が公開されできています。特別にフィリピン諸島においてロザリオの信心と信心会に関する多くの伝統が今日まで保存されてきました。

修道院では、毎日ロザリオの祈りを祈っています。

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