召命の恵み(なぜシスターに?)

~岡崎修道院のシスター~

☆スペインの宣教師の手によって受洗した生まれながらの信者です。信仰の篤い両親に育てられ「どこに居てもどのような職業についても、神様の国を伝える人、平和をもたらす人であって欲しい」と幼いころから耳にしてきました。今、宣教女として母国から離れ日本で働いていますが、自国ではない国で、苦労や困難があっても出会う人々の間に平和を保つことを心がけています。いただいた信仰を枯らさないよう、祈り、日々信仰を深めながら歩んでいきたい。私の願いです。(SDF)

☆母が、生まれて間もない私にすぐ洗礼を授けてくれたことを心から感謝しています。ホイベルス神父様の言葉に「赤ちゃんの目の中に神の国がある」という言葉を目にしたとき、赤ちゃんは神の国からこの世に生まれてきたと確信しました、同時に神の国から母のもとに来た赤ちゃんの私を、またすぐに神様への信仰を授けてくれたことが嬉しくて、嬉しくて神様が私を呼んでくださったこと、そして母が洗礼を授けてくれたことに感謝の気持ちで一杯です。(STY)

☆祈りをとても大切にしていた仏教徒の家庭で生まれたので、祈ることはいつも身近にありました。キリスト教のことを何も知らない子どものころ、なぜか村の神社のお祭りに出ていた屋台で地味な十字架を見つけ、周囲があきれる中、十字架を買ってもらいずうっと大切に身に着けていたことを思いだすたび、すでに神様が私を選び、修道生活へと導いてくださったと信じています。これこそが私の信仰・召し出しのルーツだと確信しています。(SCN)

☆キリスト教ではない家庭でしたが、若くして亡くなった兄がたくさんのキリスト教関係の本をもっており、兄と似た傾向のあった私はすべて本を読みつくし、修道生活という生き方があることを知り心惹かれました。周囲の人がプロテスタントの教会へ行く中、私はカトリック教会へ通い宣教師の司祭や信者の方との関わりの中で信仰を育てていただきました。亡くなった兄も、私をカトリックへと導いてくれた気がします。(SAM)

☆私は安産ではなく、母の祈りと犠牲のおかげでこの世に誕生しました。恵みを願ってつけられた名前は恵子。信仰の篤い家庭の中で幼いころから心の中に宿ってきた光(信仰)が、出会いや別れの経験、様々なボランティア活動や人とのかかわりを通して育てられました。自分自身と向き合っていく中で生き方についても考えるようになりましたが、母の恩師であったドミニコ会のシスターに声をかけられ、また導かれながら修道生活を歩み始めることになりました。自分の弱さは、十字架であるとともに私の救いです。ありのままの私を、神が愛してくださっていることを私は信じています。(SFM)

☆キリスト教との出会いは、母校であるドミニコ会の学校です。キリスト教のこともシスターたちのことも何一つ知らなかった私ですが、学校生活の中でドミニコ会のシスター方から信仰の種を心に蒔かれたと思います。卒業後6年の月日を経て、カルメル会の宣教師である神父様から受洗しました。幸い、カルメル会の神父様が霊的な父親としてずうっと面倒を見てくださいました。私が信仰のルーツを考えるとき、信仰の種をまいて出会いを導いてくれた神様のご計画・・・・感謝しています。(SAK)

 

~北条修道院~

☆鐘楼の美しい聖カタリナ女子短期大学で宗教をS.R.上妻、S.C.久保に、英語をS.B.中田に教えていただきました。北条修道院で毎日曜日、武田義雄神父様の素晴らしいお話を聞くことができました。神父様たちやシスター方に出会えたことが、私の信仰のルーツです。 (SCT)

☆私は昭和6年、松山市平井町で誕生いたしました。父は栃木県、足利の出身、母は愛媛県松山の出身です。父は、鉄道員として、北朝鮮で勤務していましたので母は私の出産のため、実家へ行っていたのです。4歳の時、母は子どもたちを伴って父の許へ行き、家族がともに生活するようになりました。敗戦により、生活は逆転し、ソ連軍の監視の下に置かれるようになりました。翌年5月無事.脱出でき帰国しました。母の故郷松山に落ち着き、私は神の憐れみ深い摂理に導かれて、聖カタリナ学園女子商業学校に2年生として編入させていただきました、信仰と召命の恵みをいただき、今日に至っています。神に感謝。(SSK)

☆私が中学や高校の頃、折にふれて心に浮かんできた疑問は、神の存在や人生における真理、そして人が生まれてきた目的などでした。これらについてはカトリック要理で学ぶことができ、1954年のマリア年に受洗しました。その時の幸福感は、最高のものでした。「私は神の子になった、皆さんも私のようになりなさい!」と全世界に向かって大声で叫びたい気持ちで一杯でした。しかし私のような悪い者は修道院には向いてないと思い込んでいましたが、神はお召しくださりこの聖なるドミニコ会に入れてくださったことを日々心から感謝しています。(SMTU)

☆私の祖父、そして隣の家の同級生(家族全員、今でいう丘の上の教会(新教)の信者)そして私の小学1年2年の担任の先生が丘の上の教会の牧師様でした。この方を通して、神様は信仰へと導いてくださったのだと思っています。祖父は明治時代の生活の中で長崎から流れてこられた何人かの方たちとのことをよく子どもの頃に話してくれました。「ヤソ教さんは気の毒な、じいちゃんはよくいろいろ話をした」と。小さな小さな庵もあり、ヤソ教の亡くなった方の墓と云っておりました。子どもの頃で祖父の話はあまりよくわかりませんでした。私が高3の時、祖父が死の間際に「じいちゃんもヤソ教の神様のところに行けるかのー」と神父様のお計らいで洗礼のお恵みをいただきました。優しい、安らかな死でした。私は今思います。慈しみ深い神様は、この三人の方々を通してキリスト教の信仰へと大きなお恵みをくださったと信じております。(SGA)

☆私は1938年に生まれて間もなく、父の仕事の関係で、中国・上海で終戦の1946年に日本に引き揚げるまで、人格形成の重要な幼児期を過ごしました。日華関係最悪の時とはいえ、中国大陸についてある種の郷愁が自分のルーツに関係があるように思えます。(SBN)

☆生まれ故郷の近く(内子町)に隠れキリシタンの里があると知ったのは、修道院に入ってからのことです。最近になって、その場所を探し当て、キリシタン遺物と言われている大師像の前で祈りを捧げました。私のルーツは、そこにあるのかもしれないと思ってワクワクしているところです。(SLT)

 

~東京修道院~

☆わたしは、終戦2年後に本会経営の松山女子商業新制中学に入学しました。真言宗の家に生まれたが、なにも知らずにカトリック中学で学んでいました。入学後間もない5月のある放課後、担任の優しいS先生が(後で知ったがカトリック信者)「五月はマリア様の月で毎朝おみどうでお祈りしてお花を捧げるのだけれど、良かったらいらっしゃいませんか」と誘われました。あまり意味も分からなかったが、そこにいた数人の友人と一緒に、ほとんど好奇心で「行ってみようか」ということで参加し始めた。朝の始業前の8時15分からだったので遠方から通学していた私は、朝かなり早く家を出なければならなかったが今思い出すと、なんだか一生懸命になっていて別に苦になっていませんでした。その先生はわたしたちにそっと寄り添い、10月にはロザリオの月を、12月はクリスマスをとイエスの道を徐々に教えてくださいました。宗教的種々な行事に参加しながらわたしたちはお祈りに何か意味を見出そうとしていました。そのような静かな導きから、私たちは、まもなくシスターSの公教要理の勉強へと道が開かれ、毎放課後のお話がまた珍しくて興味深々、特に旧約聖書の語りに皆引き込まれ、明日を楽しみに帰宅するのでした。シスターSは、要理の教授とともに信者としての生き方を自らの同伴と模範で示し、信仰生活を身につけさせてくださいました。その頃、シスターたちは一体となって、効果的宣教方法を駆使して多くの生徒をキリストとの出会いに導いておられました。最後に、あの担任のS先生が、最初に私をキリストとの出会いに導いた洗礼者ヨハネ役を果たし、キリストを指し示してくださった大恩人で、優れた信徒宣教者だったのだなと深く感謝しています。今の私は、キリストとの出会いに向かってのあの出発点から、本会・家族、無数の友人・恩人たちとの出会いを通してここにあるのだとの思いを深くし、限りない感謝を捧げています。神に賛美! (SAW)

~ローマ本部~

☆私のルーツは、5歳の時の広島の清心幼稚園(長束の近く)の聖堂(祇園教会)の赤いランプです。畳の教会でした。ばら組のシスター(純心聖母会)が時々みんなを聖堂に連れて行って、赤いランプがついている時には「ここに神さまがいる」って言われたことです。北条の古い修道院で、あの赤いランプに再開しました。それからです。ぐいぐいイエス様に引き付けられていったのは、そこには、今修道生活をしている姉妹たちもいらっしゃいました。マルチンの家にボランティアで行っている時、お昼時に職員さんに「ご飯(めし)だよ~ ~」と呼ばれたのですが、今思うと「お召しでした!」。職員さんたちと良く踊っていました。懐かしい思い出です。(SMS)

 

~沖縄修道院~                            

☆私は聖カタリナ女子商業高等学校・進学コースに入学するまで、カトリックの存在も、シスターの存在も知りませんでした。ただ、父親が少年時代・青年時代を奈良のお寺で過ごしていたことから、父親の中にある信仰心のようなものは小さな時から感じていました。高校に入学してから自然に人の力を超える者の存在を求めるようになりました。そんな時、シスター 大石の笑顔に出会いました。「こんなにも純粋に素敵な笑顔でいられる人がいるだろうか」と衝撃的でした。永代町の校舎ですぐにカトリック要理をはじめました。2年生になり藤原校舎に移動、続いての要理はシスターアスンシオン渡部からでした。二人のシスターの指導で聖霊降臨に洗礼を受けたのですが、卒業するときは、少し後から洗礼を受けたソール マルチーナ福住と「1年後は修道院で会おうね」と約束をして、私は園部修道院で、彼女は、北条修道院でアスピランテを過ごすことになりました。洗礼の代母と代子が一緒に修道生活を始めることができたのです。神様の計画とみ旨は計り知れないと感じています。今二人とも、病気と闘っている戦友です。でも、今笑顔でいられることは神様の恵みです。そして日々子どもたちから元気を貰ってい(SPT)

ハッピーちゃん☆わたしは、今を去る15年前、ここのシスターたちと出会いました。初めは修道院の番犬として、シスターたちを守りました。ほどなくして、学校犬となり、この学園の子どもたちと関わるようになりました。今はとても充実した日々を過ごしています。なんという幸せ、関わることの幸せを神さまと出会う嬉しさに例えることが出来ます。感謝のうちに。私は、中学生の時、「ミッションスクール」に何かしら期待するものを求めていたように思います。そこで、受験校を急きょ変更して、松山女子商業高等学校だけにしました。大げさにいえば、不思議な星の導びきのもと旅を続け、遂に馬小屋の救い主に出会ったあの3人の星占いの学者のように。 おかげ様で信仰のお恵みをいただき、遂には、人生がガラリと変わっていきました。自らさえも、修道生活に入るとは思ってもいませんでした。でも私が聖ドミニコの子どもにしていただいたのは、同じ信仰をもった、ここで出会った仲間、友人がいたからこそです。この方々に支えられ今までの人生を生ききることが出来ました。いみじくも、アリストテレスの「友情は人生の至要なり」という名言、さらに、聖トマスはこの名言を信仰の世界に転用して、神と人との友情を論じています。私たちを神の友として遇してくださったイエス様に、私の残された日々をどのようにお返ししたらいいのでしょうか。感謝、感謝。(SCK)

☆インタビュー ~Sr.ドミニカがカトリック教会で受洗されたいきさつをお聞きしたいのですが。

「私は、高知県赤岡の生まれです。小学校1年生の頃、カトリック赤岡教会の創立と共に児童の日曜学校が始められました。学校の帰り途にあった赤岡教会の幼稚園の庭は、児童の遊び場として格別の場所でした。

私は日曜学校にも熱心に通い、小学校1年生から5年生まで皆勤でした。もちろん皆勤が受洗条件でした。その折、皆勤者は私ただ一人でした。6年生で聖カタリナの霊名で受洗のお恵みに浴したのです。この教会の主任司祭は、新進気鋭のドミニコ会士28歳のドミンゴ神父様でした。当時はミサに参加できるのは信徒のみでした。日曜学校に来ている子どもたちは教会の周りをぐるぐる廻り、中から聞こえてくるミサのことばに耳をそばだてたものです。こんなことも今では懐かしい思い出です。」

~Sr.ドミニカの受洗への歩みを聞かせていただき、驚きました。5年間、日曜学校皆勤なかなかできないことですね。その頃から召しだしを感じていたのですか。

「今にして思えば、小学校2年生の時、赤岡教会の献堂式が行われました。多数の来賓、信徒の方々が来られていました。その中で、小学校2年生の私の目に焼きついたのは、中島教会に修練院を持つ女子ドミニコ会の修練長Sr.ベゴニア・アギレのお姿でした。修道服に包まれた慎ましいシスター、まったく、この世の人かと思えないほどの、まことに、衝撃的な出会いでした。なにかしら、聖なる世界を垣間見たような。

そして、時は流れ、無事、私は、赤岡教会青濤(あおなみ)幼稚園の教員となりました。またまた、時は流れ、私は、ドミニコ会のシスターとなりました。

もしかしたら、小学校2年の時言葉を交わした訳ではない、あの出会い、シスター・ベゴニアは、きっと、この教会からシスターになる人が出ますようにと祈られたに違いないと思っています。シスター・ベゴニアは祈りの中に私のことをも加えてくださったのではないでしょうか。

神さまの慈しみ深いみ手の業に感謝するほかありません。平凡に見える一人ひとりの人生の歩みの中には、濃い濃い神さまの思いが届いているということを信じずには居られません。」(SDB)

☆北海道のトラピストでドミニコ会の数人のシスターと出会い、今にいたっています。今振り返ると、人との出会いは人生に多大な影響を与えると思います。両親は、カトリック信者でした。両親からいただいた宝は、信仰であると思っています。(SBY) 

☆一人の女の子(中学2年生)が母の死で悲しみの日々を過ごしていました。(病気の時、毎日お寺にお参りをし、お線香をたて祈っていました。)生きる気力を失い、自暴自棄になり学業もおろそかになり進学も考えず、死んで母のもとへ行くことを思い続けていました。図らずもカトリックの女子高校に入学し、目立たない、表情の少ない生徒として生きていましたが、ある日シスターの授業で神の存在を知り、生きる価値を見出しました。不思議な出会いと導きにより、カトリック松山教会で受洗の恵みをいただきシスター方、神父様方に支えられて喜びと希望の日々が始まりました。高校時代から修道生活への望みが強くなり、聖ドミニコ、聖女カタリナの生き方にあこがれ入会し、今に至りました。このようにして、女の子は新しい生き方を知り幸せになりました。今振り返ると、シスター、神父様方が神様のことを宣べ伝えることにより、多くの人の魂を救い、神の国が実現することがわかりました。 感謝のうちに置かれた場所で、日々精一杯小さな花を咲かせて行きたいと思います。(SFK)  

                       

~伊丹修道院~

フィリピンにはいろいろな習慣があります。その習慣の一つは、家族でロサリオを唱えることです。両親の話によると9人兄弟で、最初の4人が、男ばかりで女の子を願いましょう、という相談がありました。家族のロサリオの祈りの意向はマリア様の取次ぎによって女の子を願い熱心に祈りを捧げました。幸いなことに5番目の子が女で、小さくて、弱い子どもです。私のことです。子どもの時から私は病気にかかりやすいから、両親と兄たちは私を甘やかし、十分愛情を与えました。この幸に包まれた大家族の中で、単純にすくすく育ちました。母は、子どもたちに人間関係において、最も大切なこと、すなわち、他の人に対していつも正しく優しく接することを常に教えました。母のこのような宣教の精神が実を結び、私は、人々を愛しておられる偉大な神の愛の招きに応えたのです。これらのことを通して、母の胎内にいる時からマリア様と出会ったと信じています。

1981年11月7日、新しい世界に入りました。私に注がれた神の偉大な愛は、修道生活において、毎日、毎瞬間のインスピレーションの源でしたから、たとえ困難にあったにしても、それらの困難は、私をより強めるものとなっていました。1990年1月1日私は神に全面的に「はい」と答えることによって、主の者になりました。主が私の愛の忠実さを試されたかのように、1991年6月27日、日本の聖トマス・アキナス管区へ派遣されました。苦しい時嬉しい時、どんな時にも、同じ「はい」が主に捧げられるようになりました。神のみ摂理にかたく信頼を置き、主イエス・キリストによって始められた仕事を続け、私のただ一つの義務、すなわち、私自身を明け渡すことによって、今の瞬間が神のみ旨の表れとなるよう祈り、希望しています。家族のロサリオの祈りと母の子どもたちの育てかたが、私の召命と宣教のルーツだと思います。(SRA)                                    

☆私の家族は両親と8人兄弟姉妹の10人家族でした。父が音楽好きで家にはオルガンがありました。父はヴァイオリンも演奏できました。家族はプロテスタントの信者で、私も歌が好きでしたので歌が信仰の助けになりました。カトリックに出会ったのは松山女子商業高等学校に入学したからです。シスター坂本は神様のお話を上手に分かりやすくしてくださいました。カトリックは、神様へのまっすぐな道であることを教えてくださいました。また、カトリックははっきりした教えをもっていることも知りました。シスターは「両親を呼んでほしい。」とおっしゃり、家族で要理を勉強することになりました。その後、家族で改宗式に臨みました。やがて、修道生活を望むようになり、ドミニコ会に入会しました。皆と一緒に祈り、歌うことによって神様に心を向け、賛美する生活に感謝しています。松山女子商業高校に出会ったことにより、本物に出会えたという大きな恵みをいただいてうれしいです。(SAH)

☆信仰のルーツを辿るにあたり、自身の人生を回想する旅に思いを馳せてみることにした。まず小学1年生の敏感期、担任から「天国」ということばを聞き、別世界があることに気づく。同時期に、学校の推薦映画で「神の十戒」「ベンハー」を鑑賞して、神の存在とイエス・キリストを知った。

小学2年生のとき、従兄の交通事故死と別離の悲しみを体験する。感受性の豊かな時期に、多宗教日本が不思議でならない。「宇宙を創られた偉大な神は唯一なのに、なぜ宗教が多いのか」と答えを求めて、神探求が始まる。昭和44年、友人に誘われて、当時の郡中教会を訪問する。聖堂の静けさ、十字架上のキリストを見つめ神秘的なものを感じとる。十字架像に向かって「あなたが本物の神さまなら、高慢なわたしに苦しみを与え、ここに連れ戻してください。」と心の中で叫んだ。

1年後、わたしは神探求に疲れ再び同教会を尋ねる。教会の入口に立っていると、ミサに遅れてきた信者と出会い、祈りに誘われる。その日は、ちょうど日曜日の礼拝時間であった。このようなきっかけで公教要理を学ぶことになる。キリストに出会い受洗、心の重荷は癒され喜びと平和で満たされる。

ある日、祈っていると「坂出に行きなさい!」という内なる声を聞く。何のことか分からず代母に相談すると、とんとん拍子に事は進み、マルチン病院を紹介されることになった。看護学校在学中、本会の召命黙想会に参加して、寝る前の祈りの歌声を聞き、自己の召命を確信する。ここから不思議な力が働き本会入会の恵みへと導かれた。また、こんなことも思い出される。数十年前、青年練成会の帰りに、松山市駅のプラットホームで出会ったシスターが「このコート着た人はシスターになるよ」と、私の肩にぶかぶかのコートを羽織った。その方はソール・ロサリア・ゴメスであった。時期は冬、心の温かさが伝わってきた。

十字架上のキリストに叫んだあの日から50年が経つ。しかし、その以前から神は、人や環境そして出来事を通して、小さき者の心の扉を叩き続けておられた。神の救いの手段は、計り知れない。この後も、わたしたちと共におられるインマヌエルを信頼して、賛美と感謝のうちについて行こう。(SAG)

☆キリスト教との出会いは、私学高校受験を選んだ時、カトリック高校であることを全く知らずに受験したことから始まりました。宗教という授業があり、初めて見る童貞様に興味を惹かれました。授業開始前15分くらい何人かの童貞様が、各々の場所で希望の生徒に公教要理の勉強をしていました。私は好奇心から、シスター上妻のクラスに行き学びました。高校二年生になってからはシスターロサリオ中西の要理に参加しながら受洗への望みを持つようになり、一人の友人も私と同じ思いを抱いていたのでシスター中西に放課後も受洗の準備のための要理をしていただきました。両親に受洗する許可を願ったところ、猛反対、特に、父はその後、口を聞いてくれませんでした。毎日毎日願い続けていましたが、父は益々頑なになるばかりでした。受洗前日、母が仕方なく父に内緒で許してくれ、ベールを買うことができました。

受洗後、毎週木曜日の放課後、修道院の聖堂で聖体降福式があり、その後童貞様とおしゃべりしたり聖歌を歌ったりして楽しい時を過ごしました。高校三年の半ば、シスターになりたいという気持ちが湧き出てきました。特に具体的な動機もありませんでしたが、只自分でもわからない何かに強く促されているのを感じました。でも、単なる憧れかもしれないと思い、高校卒業して二年間自分の気持ちを確かめることにしました。卒業後、シスター大山の勧めで聖マルチン病院の看護学院に入学しました。そこで「私はシスターになりたいと思っています」とシスターイサベル曽我部に申し上げると、霊的指導としてシスターアドラッシォン正岡が霊的指導をしてくださるようになりました。

入会にあたり、何の準備もできない私をシスターナチビダ岡田は、母親のようにいろいろなものを準備してくださいました。本当にたくさんのシスター方に支えられてきました。洗礼の恵みをいただいて59年、そして、神様から呼ばれて55年の長い道のりを神様の愛と慈しみの中で歩み続けることに心から感謝です。奉献生活を生きていく中で何度か危機がありましたが、紆余曲折しながら、たどりつくのは神様の深い愛のみ手の中にいる私でした。

40年間台湾管区で過ごさせていただいた体験は、私を大きく変えてくれました。とりわけ、フィリピンの姉妹たちからいただいた生活に根ざしている信仰の深さです。今日まで多くの人々、姉妹たちに支えられながら奉献生活を歩んでこられたことに感謝!神に感謝!     (SCS)

☆第二次ベビーブームが終わった頃1975年10月、私は兵庫県明石市で生まれました。同年12月に滋賀県のカトリック大津教会で受洗、家族や教会の方たちに信仰を育てていただきました。家族とともに、仲間とともに歩んだ信仰生活であったと言えます。

父と母はそれぞれ河原町教会、鷹取教会で成人洗礼を受けたそうです。浄土宗、神道からの改宗でした。また、親戚が集まるときにはこの2つの宗教だけではなく、いろいろな宗教を信じている人、特に何も信仰していないような人もいて、人の思いを尊重することを学ばされた気がします。

幼稚園は教会の隣にある聖母幼稚園に行きました。メリノール会のシスター・マリー・エリスが神様についてお話されました。シスターは教会で日曜学校や初聖体・堅信の準備勉強会、スカウト活動、レジオ・マリエ、聖書講座など、多くの祈りと活動、指導をされました。今思うと、彼女こそ私の理想のシスターだったのかもしれません。日本語の上手なドイツ人であり、アメリカで亡くなられました。

幼稚園以外はカトリックではありませんでしたし、学校生活でカトリック信者の友達に出会うことはほとんどありませんでした。笑い話になってしまいますが、父は、私が幼い頃からキュリー夫人のようになってほしいと思っていたと母から聞いたことがあります。そのことを言われたことは全くありませんでしたが、実は私も同じように考えていました。結局、学問を深めた「キュリー」にも、愛する人と結婚し、「夫人」にもなれませんでしたが…。

小学6年生の夏、教会から呼びかけがあった東京・八王子にある師イエズス修道女会の志願・修練院での錬成会に参加し、神様からの呼びかけを感じ、考え始めた修道生活。両親は、気持ちを打ち明けた私のことで、「娘があなたのお望み通りになりますように」と祈り続けてくれたそうです。そのうち反発して教会に行かなくなりながらも、20歳以降は京都教区の中学生の合宿のリーダーなどをさせていただきました。小中学生や司教様、神父様たちと出会う中で、次世代の人の信仰教育について考えたこともいい思い出になっています。考え方の違う人たちと出会う中で、修道生活を考え始めてから具体的な歩みを始めさせていただくまでに15年の歳月を経ていました。

振り返るとすべてが線でつながって見えてきます。時代は変わっていきますが、神様が人や出来事を通して呼び続けてくださることは同じなのだと信じて神様に向かって歩み続けたいと思います。(SEF)
☆会のルーツをソール アッセンシオン石丸が、「観想修道会」と言っていたので、瀬戸の聖ヨゼフ修道院を訪問しました。姉妹的交わりの中で、聖ドミニコに託されたものについて皆で話し合いました。私たちの宣教がこのシスターたちの深い祈りに支えられていることを実感し、心から感謝しないではいられませんでした。

私はミッションスクールで7年学びましたが、その間一人のシスターが亡くなられました。アメリカからいらっしゃったシスターは最期に、「私は日本の土になりたい。生徒・学生・教職員・ご家族のためにいつも祈っています」とおっしゃいました。その時、気づかなかったのですが、宣教修道女のシスターたちに育てられたことが、私の人生を方向転換するほど大きな影響を受けたのだと思います。(SAN)

☆愛媛県伊予郡岡田村で父と母のあいだに9年越しで生まれ、村中で祝っていただき、大切に育てられました。叔父が私のことを女学校で学ばせるべきだと勧めてくれ、周りにたくさんの学校があった中で松山女子商業高等学校に入学し、土居校長先生(商業科目担当)、パトロ先生たちのもとで非常に楽しい学校生活を送りました。モデスト神父様とシスター上妻(洋裁担当)が、カトリック要理を授業時間外に教えてくださいました。数名の仲間がいて、人数はどんどん増えていきました。12月24日の降誕の夜半ミサのとき、学校の聖堂で洗礼を受けました。15歳のときのことでした。

「生涯を神様にお捧げし、シスターになりたい」という気持ちが、洗礼を受けてから起こりました。両親や周りの人たちは洗礼を受けたのでいずれ修道生活を始めると思っていたようです。「どうしてこの道を歩むの?悪いことをしているわけでもないのに」という反対意見もありました。

入会の日にJR松山駅まで大勢の方が見送ってくださいました。父は亡くなっていましたが、母、妹、弟などが見送ってくれました。職務上、私服刑事をしていた親戚が私を見送りたかったけど見送ることができなかったことを思い出します。 神様の似姿として創られた私たち。神様に似た者になるよう、日々の生活を大切に過ごしていこうと改めて思うこの頃です。(SVG)

☆1956年4月のことです。教会の近くにあったあるお稽古が、急にお休みとなっていました。毎週、稽古に通っている時、教会から歌声が聞こえていたので好奇心も手伝ってはいってゆきました。教会の入口におられたおじいさん(娘さんはトラピストのシスター)に導かれて、初めてミサに参加しました。この出来事が、三重県津市でカトリックに出会う初めての出会いとなりました。父は、「信仰は自由だから自分がいいと思うものを信じなさい。」といつも言っていました。要理をメリノール会のシスター スザンナより教えていただきました。修道生活を考えるきっかけは、代母がトラピスチヌに入会したことです。ドミニコ会に出会ったきっかけは、白と黒が好きだったことです。ほとんど白と黒の服で過ごしていましたから。(SDI)

☆私の家庭環境は、仏教で小さい時から太山寺という土地で、手を合わせて感謝していただく祈る心を育てられました。進学に際して、父が教育者であったためか、当時中学から郊外の学校に通うのは、学年で一人か二人の時代に、姉と妹は国立の附属中学に私は松山女子商業併設中学校に入学させていただきました。当時の校長先生は土居正賢先生で、母の在所の方で、入学式の前にあいさつに出向きました。

中学でシスター上妻、シスター大石に出会い、中学生の時に受洗しました。クラスの四分の一が信者になるという中学・高校時代でたくさんの良い友だちと出会い、楽しい日々を送り、信仰生活をさせていただきました。洗礼の時の三つの願い事の中に修道生活を望み信仰を失わないために学校に勤務し、修道生活に入り、その後修道の道を歩ませていただいております。(SPH)

☆私は愛媛県平井町と言う小さな町に七人兄弟の四番目の子どもとして生まれました。両親はまじめで優しい子ども思いの人たちでした。丁度第二次世界大戦の最中で世の中は貧しく凄惨な状態でしたが、私の住んでいるのは田舎で贅沢は出来ませんでしたが衣食住は貧しくとも満たされていました。経済的には貧しく大変な時代でした。長兄は利発で向学心に燃え進学を希望しましたが実現しませんでした。家庭は貧しくも宗教的な傾向を持ち、正月はそれぞれ必要な八百万(やおよろず)の神を拝み春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)にそれぞれ必要な神社参拝、先祖祀りを行っていました。

私は商業的な力をつけるために商業高等学校に進学することを望み実現しました。学校の授業の中にあった宗教の時間で童貞様が教えてくださった神様のお話にすっかりはまり、これこそ真(まこと)の神とひそかにこの神に祈ることを覚え実行するようになりました。卒業後は就職しましたが中々思うような働き口が見つからず同時に自分の人生を考える時人間はどの様に生きることが一番ベストなのか、そして弟や母の死に出会い私の生き方は、人の死とはと考えるとき、童貞様や宗教は違うが仏教の尼僧の生き方を見て、自分もそのように生きて人として完成されたいと思い入会の道を選びました。今や齢(よわい)八十(はちじゅう)にしてこの道を選ばせて戴いたことを、心から神様と受け入れてくださった聖ドミニコ宣教修道女会に感謝しています。(SCT)

 ☆生まれる前にさかのぼります。父母が受洗していたこと、そして私に信仰を授けてくれたことです。信者の家庭に育ち、叔母がシスターであったことから、ごく当たり前にカトリックの中で生きてきました。しかし、私が真の洗礼を受けたと感じたのは、短大の時でした。洗礼を受ける友達を見て、自分は本当に信じているのだろうか復活を信じるのかと自問しました。そして、信じると決めたのでした。友達が自ら信仰の道に入るのを見て、神さまのすごい力を感じました。自分はどうなのかと、無理していないだろうか、だから、両親を通して信仰をくれたのだとも感じました。神さまとそして両親に心から感謝します。(SAI)

☆「まりさん(母の名)この子(私のこと)長生きせんよ。今に亡くなるよ!」と祖父は、未熟児として生まれたこの子の顔を覗いては言っていたそうです。病院通いが日課のような日々でしたが、近くの新教の幼稚園に通い、そこで賛美歌を歌い、イエスさまのお話も聞きましたが、高校2年生の主任のシスターに出会うまで神さま知らずの日々を過ごしました。この出会いで神さまは、私の心に強く触れてくださり、シスターたちはあのような姿で、どのような生活をされているのか・・・もっと知りたいという好奇心で友人と共に公教要理に参加しました。修道院の聖堂からシスターたちの美しい祈りの声が聞こえ、明るいシスターたちを眺めるたびに、どんどん心が惹かれ、こんな弱い自分もシスターのような生活ができるのかしら・・・その間、いろいろな方々と出会いました。神さまは私の心と手をしっかり握ってくださり、今日の日を迎えることができました。シスターたちの存在はもとより、たくさんの方々が励まし、助けてくださいました。感謝でいっぱいです。(SAI)

 

~ ローマ本部~

☆わたしは、実家が天理教を信奉していたので、幼少期、小学校3年ころまでは祖母や両親に連れられて天理教の教会や、そこに附属する幼稚園で何もわからない祈りのまねをしたり、遊んだりしていました。また父方の遠縁にあたる親族がカトリック信徒であるため、叔母が「福音の園」修道会に入会し、叔父が司祭になるなど、お互いに人間を超えた神さまを信じていながら、どうしてその信じている神さまの概念が違うのだろうかという疑問をもち始めました。『幸いにも聖カタリナ女子商業高等学校に入学し、たくさんのカトリック信徒の生徒や先生、シスターに出会う機会に恵まれました。シスターAよりカトリックが教える神さまについての勉強をしました。そこで初めて神さまは「愛である」(1ヨハネ4、8)ことを教えていただき、その時の喜びを今も忘れません。これこそ本当の神さまであることを悟り、高校を卒業すると同時に洗礼の恵みに浴しました。その後、英知短期大学の宗教科で「愛である神さま」との出会いを深めているうちにどうしてもシスターになりたい気持ちが起こり、「聖ドミニコ宣教修道女会」に入会させていただきました。』50数年前の高校時代に出会ったあの頃の生徒や先生はシスターになられ、今も一緒に祈り合い、励まし合いながら聖性の道を歩んでいくことができることに心より感謝しています。この姉妹たちに出会うとわたしの信仰の原点に戻り、このような信仰体験の歴史をくださった神さまと姉妹たちに感謝しています。そしてわたしを愛し、生かしてくださっている本会の姉妹たちに心より感謝しています。(SEI)

 

~園部修道院~

☆10年間子どもを授かることができなかった母は、「子どもができたら神さまにささげます」と祈ったようです。神さまはその願いを聞いておられたようです。その後、母は小さな命を神さまから授けられました。(SLO)

☆1941年戦争が始まる1ヶ月余り前、神様から命をいただきました。小学校の頃は、近所の同じクラスの敏ちゃんが、いつも私と共にいてくれました。もう、亡くなりましたが、生涯私の友でした。女子商業高校へ入学してからは、神様の光とお恵みが溢れる日々でした。良いシスター・良い先生・良い友達との出会いは、神様へと導いてくれました。聖母被昇天の日に洗礼とご聖体のお恵みをいただきました。3月5日に卒業して丁度1年目に修練院に入り、修練長様はじめ、ノビスの姉妹方に導かれて奉献生活を始めました。その前にもう一つ大切な出会いがありました。高三の同級生奥村さんから「カルメル山の小さい花」という本を借りました。その時から、小さい聖テレジアは私にとってかけがえのない天国のお友達となりました。聖テレジアによって御父とイエス様に対する愛、聖霊と聖母マリア様に対する愛を学びました。感謝のうちに今日の日を過ごしています。(STS)

☆私の生まれは、田舎で家は田んぼと柿山を持っていました。私は、勉強よりも父の手伝いの方を好み、「今時、高校位は行っておかないと」と言われましたので、どうしようと考えていたところ、シスターの経営する商業学校があり、そこに別科といって1ヶ年だけ学ぶところがあり、そこに決め入学は出来たものの学校の勉強よりもシスターの宗教のお話を聞くことに熱中し、勉強は二の次でした。ある日、学校の帰りが遅く、帰っても自室にこもって泣いていました。慕っていたシスターが転勤になり、さみしくなり家に帰っても泣いていました。そしたら母が、「そんなに泣くくらいならついて行けばよい」と言われ、これ幸いと修道院に行くことを決心しました。。神に感謝。そこから私の人生は変わり、現在に至ります。(SNN)

☆神様に感謝!両親のもとにいのちを授けてくれて。神に感謝!大切な出会いに。神様のことを教えてくれたカテキスタの橋口先生。稲佐教会に聖ドミニコ宣教修道女会を招いてくれた竹谷神父様。そして、姉妹たち。叔母や親戚のシスター達が、どんなに入会を誘ってくれても、魅力を感じなかったのに、何故かドミニコ会に惹きつけられて・・・。今の私は、多くの祈りに支えられています。特に母の支えは大きく15歳の時に「途中で辞めて帰ってくるのなら、今 やめなさい。行くと決めたのなら最後まで勤め上げる気持ちでいきなさい。」と言われ、子ども心に決心して松山に出発したことを覚えています。今でも、母のこの言葉は、私の大きな支え・力になっています。(SME)

 

~小豆島修道院~

☆私は高知で生まれ、当時の女子青年学校本科を卒業してから、愛媛県にある国立療養付属看護婦養成所に入学しました。その頃、同じ高知出身のSr. マリア坂本とSr. デイアナ片岡が定期的に宣教に来ておられ、知り合うことができました。養成所卒業前にお2人から坂出に聖マルチン病院が開院することを聞き、開院と同時に看護婦として就職したのがきっかけで、1年後に受洗し修道生活へと導かれて、現在の私があります。(SJO)

☆ノ-トルダム修道会を創立したジュリービリア-トは、「ほほえみの聖人」と言われたが、しかし、それは、順風満帆の生涯から生まれたものではなかった。65歳の大半を病苦と、戦い、迫害にさらされ、教会関係者や、自分の修道会の会員達からも裏切られ、生国を後にせざるを得ない惨憺たるものであった。にもかかわらず、この人の口から聞かれたものは、愚痴でも、不平でもなく、「善き神の、いかに善きことよ。」という神への信頼のことばであった。  「強く、しなやかに」  渡部和子著より、参考 (SBW)
☆私にとってのルーツは、まず最初に産まれた地を離れ松山へ移り済むことになったこと。そして2番目は、仲の良い友人は皆、他の高校に決めたのに、私は少しでも知っているからと姉が通っていた高校に決めたことにあると思います。もし、松山にすんでいなかったならばカトリックと出会う機会は殆どなく、現在の私もなかったかもしれません。(SJY)

☆フィリピンのミンダナオ島で生まれの私は、10ヶ月頃に洗礼を授けたと母の話しでした。子どもの時代から家族に連れられて日曜日のごミサに預かっていた教会の姿は、若い神父さんと大勢の信者さんと共にミサを捧げる覚えがあり                                        ました。同じ教会で初聖体をいただき堅信を受け、カトリック信仰というのはあたり前のことだと思いました。フィリピンにおける夏休みは4月~5月まで学校が休みでしたが、5月は聖母月と言われる伝統があり、子どものカテキズムが始まる時期でした。私と100人以上の子どもが、教会のベンチでたくさんの汗をかきながら聖書の物語や祈りを楽しく学びました。勉強が終わると教会の裏側に立っている無原罪の聖マリアのご像の下でロザリオの祈りを唱え、それぞれの持っていった花を捧げる習慣でした。その後、行列に参加し、集会場で教会の係りのおじいさんのARROZ CALDO (お粥に入れた卵.鶏肉)を美味しくいただき、子どもの皆の楽しみでした。5月の最後の日に、マリア様のご訪問の記念にあたりチョコレートを持ち帰り「また来年お会いできる日楽しみに!!!」とお別れの挨拶をしながら家まで走って帰りました。(SCB)

 

~新居浜修道院~

☆学校の帰り道、週に一度学年ごとに集まり、公教要理(けいこ)の部屋で聞いたお告げのシスターからのお話(今思うとすべて聖書のお話だった)。幼なじみの数人の友だちとともに聖歌隊として、日曜日の教会のミサで歌ったこと。(当時の主任司祭に「あんたたちは、うぐいす組ね」と、よくおだてられた)また、5月の聖母月、10月のロザリオの月に、マリアさまのことを作文にして、夕方ロザリオの祈りに教会に集まってくる信者たちの後ろ(聖歌隊の席)からマイクで読んだこと。私の信仰生活は、生まれ育った環境の中で空気のように、すべて受け身で始まっているが、私たちに神さまのことを具体的に宣教してくださったシスターは、とても積極的だった。彼女からいただいた幼心に残るこのような体験が、今の私の宣教(子どもたちに神さまのことを伝えること)につながっていることは間違いない。(SEU)

☆私の母は自分の希望によって、私を女子商へ入学させました。それは、商業科を卒業すれば就職が見つかりやすいだろうと考えていたようです。神様は、カトリックの「カ」も知らない私に、社会倫理の授業や公教要理によって、ご自分をお示しになり洗礼のお恵みを与えてくださいました。そして次第に規則正しい修道生活に心が惹かれるようになりました。

卒業後、S医院の事務員として勤務していました。そのころ、シスターAが「なるべく早く修道院に入りなさい。」と声をかけてくださいました。 両親に打ち明けたところ「親の言うことを聞かないで、先生の言うことを聞く」と言いましたけれど、強い反対はありませんでした。21歳のとき入会させていただき、50数年の修道生活となりました。神様のすべての御計らいを感謝し、聖ドミニコ宣教修道女会共同体の中で残された幸いな日々を生きていきたいと思っています。

「兄弟のように共に住むのは美しく楽しいこと」これは、ノヴィシアドのときに教えていただいた詩編のことばです。(SSN)

☆私は昭和一桁の子です。昭和の子は新時代の到来のように期待の中に育てられた私たちでした。小さい時から病弱な私は、病院の院長さんから「こんな子は大きくなったら元気になりますよ。」と父母を慰めてくれていました。その言葉通り92歳で元気です。私の両親は、お米を(二俵)持ってポナペ島に行きました。そうした中で、私が誕生したことは大きな喜びでした。島はドイツ、スペイン、日本の植民地となったことがあり、当時に続くと思われるシスター、ブラザーが人は変わっても働いていました。言葉の関係からお話をしたことはありませんでしたが、クリスマスにはご案内をいただいたり、私たちも参加させていただいたり、今考えてみると、イエス様が近づいてくださったようです。

戦禍が激しくなった頃、船が毎日沈められるとのことでした。ある日、軍の命令で1月15日までに輸送船で送るとの指令があり、帰国しました。当時、船の道中がどんなに怖いものであるかを知っていた人々は、その決意は大変なものでした。1月の荒れた冷たさは、内地に近づくにつれてすごい寒さでした。到着後、宿舎の割り当てで船員さんたちが懐かしそうに、「よかった、よかった」と喜んでくれました。永久に会えないこの人たちを思いましたが、何もできませんでした。感謝でいっぱいの挨拶でした。この方たちは、樺太周りで撃沈し亡くなったそうです。そして、私は家族との再会がありました。心に残ったもの、私はどうしたら良いのだろう・・・・・・

私は幸いに恵まれ生涯を感謝のうちに生きる望みをいただきました。植民地時代に働いていたシスターが、言葉ではなく態度でイエスさまへの感謝の道を教えてくださいました。亡くなった人たちを思い感謝の祈りを捧げたいと思います。(SEI)

☆高校選びから今の私の進路が始まりました。自分で選んだのではなく父からの勧めでした。役所での同僚、安藤千秋先生のすすめで、修道会の経営する、良い女子教育をする学校があることを紹介され、父の心も決まったようです。父は勤めから帰るなり「女子商に行かないか」(聖カタリナ高校の前身)と・・・私は言われるままにそう決め込んでいました。安藤千秋先生は愛媛大学教育学部を卒業され、東京の小学校の教員として上京され、その後お会いすることもなくこの年まで過ごしてきました。私がカトリック系の学校に進学したのも神様の導きとしか思えません。今思えば、入学後、友だちに誘われ早速毎日真面目に朝の「要理教室」に通いました。宗教に心を惹かれ、人生の目的など共鳴するところが多く素直に受け入れる事ができました。2年生の5月24日洗礼の恵みをいただきました。卒業前にソール・ローサ上妻より「学校の事務職員として残りませんか」と・・・・。その間、召命の芽生えをはっきりと感じるようになりました。親にはいつ話そうかと、機会を待ちました。(本当は盛岡の観想修道会に希望していたのが本音)勇気を出して修道院に入りたいと・・・私も引き下がることなく粘りました。談判が続きました。その内、親の方が折れ、辛抱出来なくて帰って来るだろうと、一応家を出してもらうことに成功!昭和32年4月7日伊丹修道院の門の中へと。志願期、修練期を終え初誓願のお恵みをいただきました。誓願式の案内状を出しましたところ、即刻、飛行機で飛んできました。今日はどうしても連れて帰ると迎えに来ました。その日両親と1日話し合い過ごしました。修練長も「本人が帰るといえばどうぞ。全くご自由ですから・・・・」粘り勝ち・・・それでは置いて帰りますのでよろしく!!仕方なく帰って行きました。それからこの年84歳の今を迎えることが出来ました。そのような過去を振り返ると、いい加減な修道生活はできないはずです。親に対しても責任を感じております。きれいな心にならなければ・・・聖人にならなければ・・・・(STO)

 

~松山修道院~

☆私の召命は、聖カタリナ学園の女子商業高等学校併設中学校に入学したことから始まります。中学2年の担任だったシスターの影響でカトリック要理を勉強し、中学3年のご復活に同級生4名が一緒に洗礼を受け、信者としての歩みを始めました。その後、いろいろ悩んでいた時に出会った言葉が「天の国は・・・・畑に宝が隠されている。見つけた人は喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。・・・」( Mt.13章)でした。私にとってすべてをなげうって買う宝とは何かと考えた時、それはキリストを於いて他にはないと思い、キリストに従う道を選びました。私の好きな言葉は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5の16・17)です。(SFK)

神様の恵みと多くの人の支えのおかげで、現在こうして幸せな修道生活ができていることに感謝!感謝!です。(SFK)

☆聖ドミニコの「ゆりかご」カレルエガと愛媛のドミニコ会の「ゆりかご」松山、私の信仰と召命のルーツです。(SRM)

☆キリスト教の「キ」も知らない私が入学した高校は、ミッション・スクールだった。クリスマス、たった一人の誕生を世界中がお祝いしているイエスとは、一体何者だろうという疑問と驚きが勉強のきっかけだった。心に響く聖書の言葉に魅了され、何かに吸い込まれてゆくように、目に見えない力にぐんぐん引っ張られ、17歳の時に受洗。修道生活へと自分の生き方まで変えてしまった神との不思議な出会い。たくさんの人に助けられ、支えられ今の自分がある。神に感謝! (SMT)

☆私の父は、とても厳しい儒教の信仰者で、母方の先祖は、熱心なカトリック信者でした。親戚には、司祭、活動会・観想会のシスターがいますが、母は教会へ行っておらず、信仰生活をしていなかったので、私は母が、カトリック信者であるとは知りませんでした。私は、小学校、中学校の時は、プロテスタント教会に通っていましたが、母は私が洗礼を受けるのを許してくれませんでした。母は、洗礼を受けるならカトリック教会しかないと思っていたのでしょう。私は、母が信仰をもっていないのに不思議に感じていました。私は、初めてカトリック教会へ行った時、シスターになりたいと思いました。それが実現したのは、神の恵みと母の先祖たちのおかげと心から感謝しています。(SMP)

☆山口県の宇部興産本社に勤務していた私に、神からのお恵みが注がれました。何と私の隣席には家族全員カトリック信者の同僚がいました。その方たちに感化され、やがて私はイエズス会の神父様によって洗礼を受け、突然修道院への望みが生まれたのです。6か月という短い信仰生活ではありましたが充実した日々でした。マリア様への信心も、しっかり身に着けていただきました。代母様も守護の天使会の修道女になられました 沢山のパンフレットから私の心をとらえたのは、ドミニコ会でした。M.アスンタ地区長様から1日も早く来るようにとのことで、伊丹修道院の裏の家で幼稚園のお手伝いをしながらアスピランテとして1年半を過ごしました。裏の家には、瀬川先生という素晴らしい方がいらっしゃり、祈りと愛の中でまるで天国の門にいる心地でした。 そしてある日、Sr.高岡修練長様が「そろそろ2F(修練院)に上がりますか」と仰って、お迎えに来てくださいました。これが私の修道生活への始まりでした。 神に感謝! (SVM)

☆仏教の家庭に生れた私がキリスト教に出会ったのは、本校に入学してから約3年後でした。私が入学したときは戦争たけなわで米機による空襲で松山市内の殆どが焦土と化し、校舎も全焼しました。そして1か月後に敗戦となり、学び舎を失った私たちはその3日後から近くの神社の境内において約1か月間の授業を、その後、余土小学校の校舎1棟を借用し全校揃って本格的な授業が新校舎落成までの約1年3か月間行なわれた。こうして焼け跡が徐々に整備されたころ、モンペ姿で復興のために働かれたシスター方が白黒の修道服になってキリスト教のお話を始められた。その頃マニラから帰国されたシスターが私たちの担任になられ、大勢の友達と興味を持って参加させていただいた。高校1年(学制改革で6・3・3制となり、新制中学3年と新制高校3年となった)の時に洗礼のお恵みをいただきました。これが私の信仰のルーツであります。シスターの心のこもった熱心なご指導は受洗後も続き、卒業2年後に本会への召命をいただきました。(SLA)

☆私は、聖カタリナ短期大学に在学中シスターとの出会いがあり、洗礼のお恵みをいただきました。そのとき、人間には永遠の命があることを知り、イエス様と共に生きる喜びを感じました。その後、カトリック松山教会に通い、シスターに導かれ召命の道を歩み始めました。(SCY)

☆私には、近所に友達がいなかったので、幼少より仏壇、神棚のお世話をしていたこともあり、神様を腹心の友として毎日語りかけていました。その神がどなたなのかを知る機会を与えてくれたのが、5年生の時、叔母が見せてくれた北海道トラピスチヌ修道院の絵葉書でした。白い十字架、長い服やベールで被われた女性。叔母が外国の神様と尼さんだと教えてくれました。外国の神?神様は一人だと思っていた私は、自分の神捜しをするために、あらゆる神話を読み、その中に書かれていた「神々の神ゼウス」という言葉に目が留まり、これがわたしの神様だと思ったのが信仰の始まりです。(SMT)

☆幼少のころ、あるお寺で天国と地獄の絵図を見た時に、人間以上の存在を感じさせられた。これが信仰の道のりの第一歩だったと思います。 (SBK)

 

~坂出修道院~

☆1919年12月12日(約100年前)香川県の四国山脈の中の農家で生まれました。小さい時から山や野原を駆け巡り、近くを流れる土器川で泳ぎ、岩の上から流れの中に飛び込みをして育ちました。

東京で医師となり、卒業した病院で働いている時、上智大学のホイベル神父様より洗礼を受けました。戦時中でありましたので、川之江町(愛媛県)が無医町になり困っているのでと呼ばれ、四国に帰ってきました。その時一番近い教会が新居浜教会でした。そこで聖ドミニコ会のシスターにお世話になりました。戦争が終わり、出征していた先生も帰って来られました。修道者にと希望しておりましたので、お世話になった聖ドミニコ会にお願いし許されて無事今日に至って居ります。神様に感謝聖ドミニコに感謝聖ドミニコ修道女会に感謝!(SIS)

☆私が召命の道を選んだのは松山女子商業高等学校へ入学した時、生まれて始めてシスターの姿を見て、世の中にはこういう生き方もあるのかとびっくりしました。お友達に誘われて公教要理を聞くようになり本当に神様がいらっしゃることが確信できたので、今のままの生活ではいけないと思い洗礼を受けました。受洗後は郡中教会の朝ミサに毎日預かり、大雨の日も、台風の日も。台風の朝はドミンゴ神父様の方がびっくりして「今朝は来ないかと思ったよ」と言われてしまいました。毎朝ご聖体をいただき、卒業して会社勤めになっても毎朝ミサに行きました。その頃はシスターにならないと心に決めていたのに、いつの間にか自分の将来を考えると、自分にとってシスターになるのが一番幸せな道だと確信できるようになりました。それは、毎日いただいた聖体のお恵みだと感じました。上妻先生に連れられて修道院の玄関に着いた時には、「あゝやっと来られた」という安堵感に満たされたのを覚えております。(SMO)

「主よ、あなたの愛の心を、あなたの愛の手をお与えください」

☆不思議な光に包まれて

私は6歳の頃シスターに連れられて、毎日曜日、松山教会の日曜学校で学びました。終ると教会のミサに参加しましたが何も解らない私は長く辛抱しなければなりません。ご聖体拝領になると並んで一人ひとりいただいているご聖体の光はピカピカと光、輝いてとても不思議。子ども心に忘れられない程でした。社会の状況の変化を感じる中、また不思議な光に照らされて聖カタリナに入学。シスターより要理の勉強が始まり、卒業した年、「聖母マリアの被昇天の祝日」に洗礼のお恵みをいただき、何年か勤務している時、良いチャンスが与えられ、これまた不思議な光を受けて、私はシスターになりたいと両親の許可を願うことが出来、感謝と喜びを持って修道会の門を開いてくださったことを嬉しく今もこの不思議な光は私の奥深く輝いています。現在も健康に恵まれ、元気で奉仕に励んでいることは、マリア様のご保護のもとに主が共に居てくださり私たちを見守り援け、導いてくださっていることを実感し乍ら感謝で一杯です。(SRN)

☆親類の者が外地から引き揚げて帰る船の中で、赤ちゃん誕生。船長が名前を付けてくださった。「愛子」。修道会入会予定の女性と家族が大変よくしてくださった。貴重な白布もたくさんくださった。「死んだキリストが復活されたんじゃと」ということが親族の中に広まり、キリスト者は真底親切だということも。これがルーツ。(SRM)

☆私の召命のルーツは、音楽を通してです。小学校時代では、戦争の為の音楽教育でした。女子商業高等学校中学部に入学して、外国のシスターに導かれて、聖歌隊に入り、神を賛美し、歌い、しみじみと神への思いが感じられるようになりました。中学部の時、洗礼を受け、方々の献堂式に招かれて、聖歌隊で遠征し、沢山のミサ曲を合唱しました。学校卒業後、カトリック幼稚園で、長い間勤務し、その間、シスター方や神父様に導かれ、神のお恵みによって入会し、この度お蔭様で金祝を迎えることが出来ました。現在も今迄の体験を活かして頑張っています。(SCH)

☆私は15歳の中学生の時、母が逝去したので、中学の教頭だった従兄が「高校は女子教育を大切にしている女子商(今の聖カタリナ学園高校)に行かせるが良い」と父に勧めましたので入学しました。高校では朝の授業前に15分間、何人かのシスターが公教要理というカトリックの教えを毎日していたのでそれを聞きに行って、神の存在と天地創造の事が解り、信じて1年後に洗礼を受けました。その時のシスターが神様の事を知らない人々にその存在と愛を伝えられる宣教修道女会に入会できるよう私をお導きくださり、入会させていただきました。目に見えない神様の愛とお計らいに感謝! (SJK)
☆中学の時、若く、厳しく、優しい教師から唐突に「松山に戒律の厳しいカソリックの学校があるよ」と勧めるでもなく言われたことが始まりでした。この度、私の召命の過程の中に、主のあかし人として誰がいたのかと改めて見つめ直しますと、特別なことはなく、キリスト者でない教師、沢山の友からの優しい励ましが大きな力でした。前もって、私の弱さをも含めて主が呼んでくださっていたと思います。(SPM)

☆高校に入学して初めてシスターの存在を知ったが、宗教にあまり関心がなかった。2年生の時だったか、学校から駅前の映画館に「天地創造」を観に行った。久米明さんのナレーションで非常に感銘を受けた。同級生が未だ観ていないので、もう一度見たくて同伴した。ところが2回目で券もないのに「どうぞ」と優しい声で入場させてくださった。それからシスターの朝の要理に毎回参加し、洗礼を受けるまでになった。映画っていいものですね~!!洗礼を受けることになって全く知らなかったSr.寺田にも会え、本館の屋上で青空を見上げながら「これからどうする?」が今の車椅子で姉妹たちのお世話になっている私です。(SMF)

☆母の声「教会に行くから起きんか」。私の心の声「行きたくないなー。寝ときたいなー。」「なんで教会に行かんといかんのや」そう思ったときから自分の信仰について考えるようになりました。日常の生活のなかで、自分は信者なのに未信者と同じように生きている、その生活に疑問を感じ、神様がいるのならその神様を見つけたい‼と思いました。そして弱い私だから今のままでは無理だ、ただ流されるだけだ、そう思って修道院の門を叩いたのです。  神に感謝‼  (STF)

☆13歳の時、家と友人を離れ、聖母訪問修道女会経営の舞鶴日星中学校に修道志願者として入学した。寄宿舎生活の規則と祈りを教えられたが、それは決して楽しいものではなかった。しかし、学校でのシスターの宗教の授業時間は、一部始終聞き漏らすまいと、真剣な気持ちで聞いた。そして、学校の裏に面する小高い山の頂上に、白い十字架が立てられており、寮生の友人たちと「十字架山」に行こうと誘いあい、そこで歌ったり、町を目がけて『ヤッホー』と叫んだりした。山の中腹には、こんもりと樹々が茂った中にキリスト様磔刑の十字架があり、そこで声を上げて祈った。一人で来て祈ったことも度々あった。ちょうどその頃、教会はミサの様式が変わり、新しい聖歌を聖歌隊で歌い、バチカン公会議後の典礼に変わった時期だった。シスターの服装もトカが外れてスリム化し、新鮮だった。このような状況に3年間、身を置いた。神様との出会いがあり、小さな信仰が育まれた。8年後、聖ドミニコ宣教修道女会に入会し、心身を育てていただき、霊的生活を学び、神様への道を歩んでいる。時々、13~15歳の頃を思い出している。聖母訪問修道女会と聖ドミニコ宣教修道女会に感謝している。(SJK)

☆私のルーツ、信仰は母から、教会生活の楽しさは新居浜教会と聖マリア幼稚園から!

シスター、神父さま、先生…幼い時に出会ったたくさんの方から愛を注がれ、いつも神さまがそばにいらっしゃること、この世界が美しいこと、毎日が楽しいことを教えていただきました。ご存知の通りこんな屁理屈な私ですから、基本的で大切なことは素直な幼い時にOSとして無理やりにでもインストールしておかないと、成長とともに入ってくるアプリも正常稼働しないだろうという、神さまの深淵なるご計画に完敗です。

その後大人になってから、『信仰とは?なぜ私はカトリック?』と、お定まりの幼児洗礼者らしい悩める青年コースを歩んでいるときに出会った友人、先生、神父さま、シスターたち。これらの一つ一つの出会いがなければ、自覚的信仰者となれたかどうか、全く自信ありません。あっち行ったりこっち行ったりしている間も、ちゃんとその足取りを追ってキリストとの出会いを導いてくださった神さまの忍耐強さに最高に感謝です!!!(SEY)

☆振り返ってみると、中学生の時、自分の中に宗教性を意識し始めた。神社・仏閣に行っても、お墓参りをしても“手を合わせて拝む”という行為に違和感をおぼえたし、生活といえば“生活をしている”には程遠く、無為に過ごし、良心の責めからの助け、救いを求めていた。聖カタリナ女子短期大学に進学したのも社会からの逃避、本物の宗教に助けられたい、という叫びからであった。授業ではSr.上妻、Sr.久保からキリスト教について教えていただいた。Sr.久保は、ある日“十字架上のイエスの7つのみことば”を話された。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この言葉に衝撃を受け、ここに縋るしかない、と思った。教会に行ってみたい、でも一人では入り難い、クリスチャンの眞鍋さん(現Sr.フェリチタス)に頼んでみよう・・・そしてSr.フェリチタスに初めてミサに連れて行っていただいた。Sr.フェリチタスは学生の頃より緻密な思考、積極的な行動力、明るさ、器用さに優れておられ、対照的な存在だった。クリスチャンになれば自分もあのようになれるのかなあ、と羨んでいた。一方Sr.久保からは「この修道服の色、白と黒はお葬式の色です。修道者にはこの世では死んだ者です。」というようなお話をしてくださり、修道生活に惹かれる糸口となった。最終的に修道生活に踏み切ったのは、Sr.フェリチタスの「あなた、35歳を過ぎると入会が難しくなるのよ。」の一言であった。            多くの方々のこれまでの見守りに深謝しつつ…(SJM)

☆ 私の召命のルーツ・・・それは神さまの憐れみです。(SMK)

☆小学生の時代、教会で洗礼を受けました。毎週、教会学校に通っていた時、私の友達は、「シスターになりたい。」と話しましたが、私はシスターになりたいとは思いませんでした。なぜなら、シスタ-は「いつも沈黙で、お祈りする人」というイメージを持っていたからです。中学生、高校生の時、ロサリオの祈りを捧げながら、祈りを深めることになりました。その時、召し出しを感じましたが、修道生活をする自信がなかったから「Fiat」と答えることが出来ませんでした。青年の時、教会でさまざまな奉仕や活動をしながら、教会が私の身近に感じられました。福音を黙想する時「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだ。」(ヨハネ14.16)という言葉が、私の心をとらえました。それで、「Fiat」に応えることができました。(SYY)

 

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